日時:2024年7/13(土)14(日)15(祝)
場所:はじのさとアサノヤ
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ウォーホルのレコジャケ代表作としても知られる今アルバム。オリジナル盤ではバナナの部分がシールになっており、剥がすと中にピンク色の果肉が表れる仕掛けになっている。ジャケットと歌詞のセクシャルな内容から当時は多くのラジオ局で放送禁止になった。
ジーンズのジッパー部分が開閉可能。開いて中を覗くと、内側に印刷された白いブリーフがのぞくという、カネをかけてアホなギミックが施されている。オリジナル盤はジッパーが無印(無地)だが、日本盤は天下の国産ブランド「YKK」ロゴが光る。
ローリング・ストーンズのアルバムでは、1971年のSticky Fingersに続いて、1977年にウォーホルが手がけた2作目。ミック・ジャガーが女性の手に、中ジャケにはキース・リチャーズが女性の体に噛み付いている。ダブルジャケット(見開き)の迫力を生かしたデザインとなっている。
ウォーホルがデザインした、唯一の日本人アーティストは、坂本龍一でもユーミンでもなく、まさかの「ラッツ&スター」でした。鈴木雅之、アンディー・ウォーホル、田代まさし・・・挟んでみました。そこはかとなくグレー感が漂ってしまいます。東洋人のミンストレルショーは、ウォーホルの目にも奇妙に映ったことでしょう。
ジャケ色違いは国別。セックスピストルズの仕掛け人、マルコム・マクラーレンに見出され、以後ピストルズのアートワークを数多く手がける。デコラージュ(コラージュとどう違うの?)という手法だそうだけれど、そんなんどうでもエエと思います。カッコ良さ、しかない、マスターピース。大好き。
英国エリザベス女王の唇に安全ピンをあしらった、ロンドン・パンクの象徴的ビジュアル。曲名はイギリス国家と同タイトル。「君が代」ってタイトルつけといて「NO FUTURE!」と連呼するみたいなもん。撮影はVOGUEなどで活躍したファッション写真家、セシル・ビートンによるもの。
ヌード・人物・都市の風景を中心に、写真集の数は400冊を超える。ビョークは、北野武にベネチア映画祭で会った際「アラキ知ってる?私、彼に撮ってもらったのよ」と自慢してきたらしい。私小説的映画『女高生偽日記』日活ロマンポルノを監督し、自身も出演。ドスケベです。
ビョークは、ロンドンのギャラリーで開催されていた荒木の個展を見て、荒木ファンになったという。来日時には「ぜひアラキに撮って欲しい!」と、トランク2個分の衣装を持参したとのこと。大ファン。
ドイツにあるナチスの娯楽施設だったテナントを改良して造られた、伝説的スタジオ「ハンザ・スタジオ」でレコーディングされた今作。グラビアアイドルを経て、浅草ロック座でストリッパーとしても長年活躍したモデル、仙葉由季のヌードジャケットが話題になった。
あがた森魚の映画『僕は天使ぢゃないよ』(1977)つながりでしょうか。桃井かおりも描いてもらっています。レゲエ歌謡「口説いてくれて」、アンニュイ・シティポップ「LA LA LA LA」他、「躁鬱」「ぶたないで」「ライベイトタイム午前三時」など、いろいろ心配にならざるをえないタイトル、全10曲収録。
筆で思いっきりタイトルを画中に書いてしまう横尾あるある。カルト的人気を誇る80年代フュージョンバンド「PARACHUTE」のメンバーでもあり、昭和の大ヒット曲、寺尾聰の「ルビーの指輪」編曲者でもある井上鑑のアヴァンギャルドな名盤です。なんか、今っぽい。聴いてみて。
75年大阪フェスティバルホールでのライブ録音盤。70年代エレクトリック・マイルスの頂点を示す奇跡のライヴ。謎の地底王国アガルタをテーマにしたという、横尾炸裂のスペース桃源郷ジャケ。「三島由紀夫くんとはUFOの中で毎日会ってるよ」とか言い出すのもたぶんこの時期だったはず。
GASTUNKがハードコアパンクからメジャーデビューに伴いメタル的アプローチに移行した作品。横尾はラウドネスも手がけたりしてて、メタルありなんかー、と思いました。
思いました、て。子供の作文か。もう眠たいねん。
♪お昼休みはうきうきウォッチング♪の作曲でもおなじみ、伊藤銀次のアヴァンポップアルバム。今作をきっかけに、裏方から伊藤銀次としてのソロ活動が本格的にスタートしたという。これも横尾の画にタイトルじかに書いちゃう系。グラフィックデザインとしてはとても正しい。
急にダリ。ひと枠空いたから、ダリ。イーグルスのメンバーが在籍していたJames Gangというバンドの’75年作。内容は、めちゃめちゃアメリカ。ブルース・ロック、ちうんすか。カントリー・ロック、ちうんすか。よく知らないんです。アサノヤ店主が一番聴かない種類の音楽です。とにかく、ダリ。なんでダリやねん。
「同棲時代」、「修羅雪姫」、「悪魔のようなあいつ」など、独特の哀愁タッチで今なおファンの多い漫画家・イラストレーター。上村ワールドに惹かれるアーティストも多く、美川憲一から面影ラッキーホール、そしてガーリック・ボーイズまで幅広く支持されている。
1965年(!)アサノヤ店主が生まれる前から、NHKのテレビ番組で透明なアクリルボードに歌いながら両手で同時にイラストを描くパフォーマンスで子供たちに人気を博す。しかし亜土ちゃんの趣味は麻雀。ムツゴロウさんとタメを張る違和感。「麻雀に命を懸けています。副職がジャズシンガーで、天職がイラストレーター」(本人談)
大阪・中津生まれ、洋画家を志しパリに渡るも、30歳の若さで現地の精神病院で夭折した画家。イースタン・ユースが、「立てる自画像」をジャケットに採用。彼らは以後も石田徹也や切り絵の吉野有里子を積極的に採用していて、各作品において、吉野の感情との同期性を想起させる。
この印象的なアートワーク、実はは、「幼児児童絵画統覚検査図版」という子供の精神分析用の絵が載っている書籍から、清志郎のアイデアで引用されたもの。不遇なフォーク時代の作品がブレイク後に再発された。名曲「スローバラード」を含む、伝説のアルバム。アサノヤ店主は『夜の散歩をしないかね』が大好きです🖤
米コラージュアーティスト、ルー・ビーチ。ジャケットのデザインから「電線芸者」の異名を持つ、YMOの海外版ファースト・アルバム。国内盤と比べ、曲順やオーバーダビング、曲自体の削除など、かなり内容が違います。ルー・ビーチは後年、五輪真弓、小泉今日子などの和モノも手がけています。
そもそも絵描きでもないのかもしれない。たぶん違う。
URC(アングラ・レコード・クラブ)からはちみつぱいに加入。タイトル「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」は、店主にとってわりと心に刻まれてしまった言葉でもあります。で、内容はメチャクチャなアルバムです。「NHKに捧げる歌」とかね。立花のこととかどう思もてんねやろか。
はっぴいえんど、ミカバンド、ティン・パン・アレーなど、YMOとの出会いは最初から必然のようにも思われる。YMO「ウィンター・ライヴ1981」のステージデザインを担当。蛍光灯を舞台照明に採用したり、途中まで薄幕で隠されていたりと、何かとトガリすぎのライブ。機会があればぜひ観てほしいです。
写真撮影とメーキャップも手がけた、YMOの最トガリ期でもある6thアルバム。アルバムのタイトルは「テクノ+サイケデリック」の造語。のちのシングルカット「体操」では、「♪みんな元気に、痙攣の運動!♪」とメガホンで叫ぶなど、なかなかアレな内容であるが、アサノヤ店主は、YMOの中で最愛のアルバムは、12才の時に聴いた今作だと思っています。
なんでやねん。このオッサン、YMOの数年後には、チェッカーズカットとか、チェック柄のプロデュースもぜんぶ手がけとる。さらに遡れば、キャロルの立ち上げまでも関わっている。えぐいな。やりすぎ。とどめにYMOの温泉マークも奥村様でした。敬称つけるわ、もう。
コム・デ・ギャルソン、パルコなど、「あの頃」の時代を築いたデザイナー。エル・リシツキーのモロパクのこのデザイン、子供の頃は衝撃的にカッコ良かったです。子供騙しというヤツか。この発売当時の広告で「キ・ミ・に・DIRECT INPUT・し・た・い」というのがあったけど、ドえらい下ネタがおしゃれに流通していたもんです。
ゲルニカ後の戸川純、初ソロアルバム。「カノン」に歌詞をつけた「蛹化の女(むしのおんな)」や、ハルメンズのカバー「昆虫群」のイメージを反映したかのような、焦げたフィルムのモノクロ写真で虫の羽根のような儚げなデザインがとても美しい。タイトルは、タクシーで見た「玉姫殿」の看板をヒントに、「殿」を「様」に変えたもの、ってホンマかな?
利権と金儲けと私生活のトラブルが重なり、追い込まれた清志郎の精神状態が存分に詰め込まれた作品。とにかく怒ってる。ハワイ録音なのに。和レゲエ名曲「お墓」収録。当時、病んでいた清志郎が、「まるで心臓から吐血しているようなイラストが今の自分の状況にそっくりだ」として、このデザインを採用した。
TOMATOを不動の地位に押し上げたのがこれ。日本でも、90年代に地方から出てきた一人暮らし大学生の部屋には、ほぼ例外なく、この映画ポスターが貼られていました(これか、パルプフィクションか、バッファロー’66、どれか)。まさに一世風靡。born slippyは場所問わずあちこちでゲロ吐くほど流れていました。
米グラフィティライター。60年代後半の第一期NYサブウェイグラフィティシーンに影響を受ける。ジェームス・ラヴェルとの出会いからMO’WAXからThe Clashまで。その後、日本のアパレルシーンにも進出、90年代の”裏原的なアレ”でも活躍する。
日本の芸者をモチーフにしたといわれる、アレクサンダー・マックイーンのアートディレクションが話題になった一枚。以後のツアー衣装もたびたび担当している。アサノヤ店主はこのレコードを買った後、顔が怖すぎてしばらく裏向けて棚に置いてました。
商業のために作品を制作しないと主張していた彼が、商業作品を手がけたのがこれ。「手形を支払うため、作成する必要があった。商業主義というだけで仕事をやめる必要はない。」と、どエライ手のひら返しを行った一枚。わかるよ。カネないときはしゃあない。この原画は「のちに」オークションで1200万円で落札。
マルコムの先見の明が炸裂するSTÜSSYフォント。パンク〜ヒップホップ〜西海岸スケートシーン。むしろ青田買いぐらいのスピード感 a.k.a.飽き性。内容はマルコムの脳内をドロドロにかき回したようなカオスな作品。
セックス・ピストルズを仕掛けた男は、キース・ヘリングを見出すのも早かった。ロンドンからNYに渡ったマルコム・マクラーレンがいち早く出会ってしまった、グラフィティカルチャー。そして初のソロアルバムでキース・ヘリングを速攻起用。やることが早い。本場からみれば亜種ではあるものの、ヒップホップカルチャー黎明期の重要な作品であることは間違いないと思います。
クリスマスエイドと題された、80年代の流行といってもよい、チャリティーレコードブームのひとつで、これはスペシャルオリンピック(知的障害のある人たちのためのトレーニングと成果発表の競技会)のための企画。英米問わず売れっ子テンコ盛りの贅沢仕様。これでもかというぐらい、キース・ヘリング。
自らゲイを公言し、ドラァグクイーンとしての活動でも知られるSylvesterのアートワークを手がけています。キース・ヘリングがゲイを公表しLGBT運動に舵を切ったのが、エイズを宣言された死の2年前、奇しくもSylvesterがエイズで亡くなった年でした。
キースヘリングは仕事が分かりやすい。ドラァグボールカルチャーでのちの盟友フランキー・ナックルズと出会ったという、伝説のDJラリー・レヴァンが結成したバンド、Peech Boys。彼らが活躍した1980年代のNY、PARADISE GARAGEはゲイの黒人層から多く支持され、ガラージと呼ばれるハウスやテクノの始祖を生み出した伝説的クラブとして君臨した。
世界一売れた12インチ・シングル「Blue Monday」。このフロッピー型デザインに施された型抜き部分の加工と、黒のインクを使わず、カラーインク(CMYK)による黒を使用したため、ジャケットにコストがかかってしまい、1枚売れるごとに2ペンスの損失というアホらしさ。良き。
ギタリスト、Vini Reillyによるソロプロジェクトの1st。 これは再発盤ですが、オリジナルは全面紙ヤスリ使用ジャケット。一緒に棚に収納すると隣のアルバムが傷だらけになってしまう恐ろしい仕様。The Durutti Columnの音楽はとても優しいギターアルバムだけに、内省的に燃え盛るものを感じます。名盤。
マンチェスターの伝説、Joy Divisionの2nd。ボーカルのイアン・カーティスはこのアルバムを残し、23才で自死を選ぶ。残されたメンバーはバンド名をニュー・オーダーと変更。のちに大ヒットした「blue monday」は、休み明けの憂鬱な月曜日ではなく、イアン・カーティスの自殺を知らされた日のことを歌った曲である。
ニュー・オーダーのリミックス・シングル。一般販売ではなくクラブDJ向けのプロモーション盤として流通したもの。一連のジャケットに込められた、サヴィルのミニマルデザインが息苦しいほど美しい。
えーと・・・そろそろ、書くことなくなってきた。
・・・ごめん、ちょっと、一回寝るわ。
雑誌「PLAY BOY」のカメラマンを経て、1970年代から80年代後半にかけ、『ヴォーグ』などのファッション誌を中心に活躍。挑発的な撮影手法、サディズムとマゾヒズムをうまく利用して撮影現場に緊迫感を生み出すのが得意とされた。そのやり方には悪評も多く、それが逆に(あくまで当時の)『ヴォーグ』誌の刺激的な魅力のひとつとして注目を浴びた。
ニューロマンティック代表バンド、Visageの2nd。このジャケットデザインには余分な要素が一切無い。なぜか?それはこのヘルムートニュートンの写真を最大限に生かすレイアウトをバッチリ決めたのが、ピーター・サヴィルだったからだ。余白、フォント、マイクロデザイン( 》 《 だけ!)、完璧。
構図ができすぎ。もはや浮世絵やん。あと1ミリも寸分ずらせないところでガチっと完成されている。写真は、女性とその太ももに刺青をしようとしている男性が抱き合っているというもの。アメリカではウォルマートから苦情を受け、多くの小売店用に別ヴァージョンの無難なアートワークが用意されたということです。
ジョンとヨーコ、最後の写真。事実上のジョン・レノンの遺作ともなったこのカットは、紀信、ジョン、ヨーコの3人でセントラルパークまで歩いて行く途中、道すがら撮ったもの。世界的に有名になったこのカットは、わずか数分程度の撮影時間だったという。
NYのビジュアルアーティスト、グラフィティライター、画家、パフォーマンスアーティスト、ゴシック・フューチャリズム、偶像破壊武装主義者のラメルジーが、盟友Kーロブとともにバスキアのビジュアルを全面的に採用した、ヒップホップの伝説的一枚。
同じニューヨーク出身のThe Strokesに自らの作品「Bird on Money」を提供している。このアルバムは、プロデューサーにも同じくニューヨーク出身の大御所リックルービンを迎えており、ニューヨーク愛の詰まった作品とも言える。
27才の若さで亡くなるまでの間、わずか10年ほどの活動期間に3000点を超えるドローイングと1000点以上の絵画作品を残した。政治的、社会的、人種問題などいくつかの違ったテーマが、文字やシンボルによって暗号のように潜まていせるのが作品特徴。藤原ヒロシ?ちょっと分かんないす。
ドイツ・ドレスデン出身の現代アートの巨匠。多岐にわたる素材を用い、具象と抽象、そして「人がものを見て認識するという原理」に取り組み続けている。リヒターが1983年に描いた作品「ロウソク」を二次使用したものであるが、アメリカのインディー・ロックバンドをメジャーに引き上げる原動力にもなった一枚。
とにかく若者=ティーンエイジャーの青春を記録し続ける写真家ジョセフ・スサボ。音楽、ドラッグ、アルコール、そしてコミュニティに心を奪われた若い被写体たちを撮り続ける。この写真はスサボの中でも語り継がれる名作写真集「Priscilla(プリシラ),1969」の中から採用された。
P-MODELやヒカシューと並び「テクノポップ御三家」に括られがちであるが、プラスティックスの良いところは、グラフィックデザイナー(立花ハジメ)、イラストレーター(中西俊夫)、スタイリスト(チカ)を中心に結成されたこと。つまり、音楽なんかやったことないヤツが中心になっている。このことが、プラスティックスの軽快で薄っぺらくてアホらしいカッコよさのすべてである。
在学中に「ニューヨーク・パンクの女王」ことパティ・スミスと同棲。コレクターに見出され、以後、ポートレートやヌードのモノクロ写真を中心に活動。日本では、チンコ丸出しの写真集が猥褻物と審判され、二度ほど輸入禁製品に指定される。アホらし。42才でエイズにて天逝。
80年代ポップカルチャーを象徴するペパーミントグリーンが印象的。オリジナル盤には、中央のイラストにロサンゼルスを東西に走る大通りハリウッド・ブールバードの1984年当時の風景が描かれている。タイトルの由来は、大滝がラジオDJ等で自分のことを「イーチ・オータキ」と名乗っていたから。なんで?
泣く子も黙る、80年代シティポップおじさん。一度見たら忘れない配色と、浮遊する謎のオブジェクトたち。雑誌「FM STATION」のカセットラベルや、シャンプー「TOP BOY」のデザインも当時の中学生にはドンズバでした。当初、達郎は永井博へ依頼するはずが、永井が大瀧詠一をやると知って、慌てて鈴木英人に依頼したのだとか。
湯村輝彦(テリー湯村)に指導を受け、1978年に独立。トロピカルでクリアな風景イラストレーションを描く。大滝詠一の作品の多くを手がける。鈴木英人と並ぶ、80sグラフィックの偉人。このジャケットは、CBSソニーより「アルバムジャケット特別賞」としてゴールドディスクを受賞している。